トスカーナのマッキアイオーリ

Telemaco Signorini - Maternal joyfulness 1850年後半のフィレンツェ。芸術学校の教育方針にがまんできなくなっていた若い画家のグループが、登場しはじめる。彼らはやがて絵画について語り合ったり、新しい知識を取り入れるために、カフェ ミケランジェロでおちあうようになった。そして、ある日彼らは、幸運にもフィレンツェにあるロシアのデミドフ王子のヴィラで、大量の絵画のコレクションを見る機会を得たのである。そこにはアングル、ロコ、そしてドラクロアのような豪華なフランスの画家たちの名が並んでいた。この若者たちとは、テレマコ・シニョリーニ Telemaco Signorini   、ステファノ・デ・ティボリ Serafino De Tivoli であり、彼らは後にトリノ展覧会において初めて、クリスティアーノ・バンディ Cristiano Banti やヴィンチェンツォ・カビアンカ Vincenzo Cabiancaと共に全く新しい手段を用いた作品を発表したのである。

Vincenzo Cabianca - Rest in the mountain その画風、画家たちは ”マッキアイオーリ”と呼ばれた。それは、鮮やかな色彩を ”マッキア” 点 で描き、強調された明暗で表現したためであった。彼らは作品を展開しながら、対象物の色彩、デッサン、写生をする基本的概念をわすれ、そして事実上、明暗法と色彩を ”点” で並べる方法に特権を与えたのである。鑑賞している私たちへの視覚効果は、ちかちかと飛び回り、明暗の絶頂といえよう。彼らは、ますます写生(その場所に赴いて描く事)を中心とした絵画に没頭していった。光すべての振動を研究するには、その場所で直接描く事が必要であり、外に赴かないという事は不可能であった。アトリエ内で、作品を遂行するのに必要な光の色調ととらえる事は、無論できなかったのである。

Niccolò Cannicci - Shepherdess 先に述べた画家たちと一緒に、ヴィート・ダンコーナ  Vito D’Ancona  、ラッファエロ・セルネージ  Raffaello Sernesi、ジュゼッペ・アバティ Giuseppe Abbati、オドアルド・ボラーニ  Odoardo Borrani が実に多くの作品をサンマルコ・ピストイエーゼに赴いて描いた。そして、これらの画家とは一人孤立していた、ジョバンニ・ファットーリ Giovanni Fattoriだが、もっとも偉大な画家であったことは確かである。彼らのなかで、友人であり、仲間内での評論家であり、スポンサーでもあったディエゴ・マルテッリ Diego Martelliは、1861年から67年の間、カスティリオンチェッロにある彼の所有地に、マッキアイオーリの画家たちを通わせる機会をあたえた。こうして、”カスティリオンチェッロ派” という時期が定義されたのである。まさにアーティストたちに与えられた、この革新的かつ、すばらしいマルテッリ家の風景にどっぷり浸かった滞在のおかげで、沢山の数の作品が生まれたのであった。同じ時期フィレンツェでは、もう一つのマッキアイオーリの中で、重要人物が大成していた。1860年おわりのころ、ピアジェンティーナと呼ばれたフィレンツェ郊外を描き、すばらしい絵画を残した、シルベストロ・レーガ Silvestro Legaである。彼に続き1870年代初期には、のちにパリに住み着いたジョバンニ・ボルディーニ Giovanni Boldini 、ジュゼッペ・デ・ニッティス  Giuseppe De Nittisが加わった。そのパリでまさに同じ時期、正確にいえば1874年、写真家ナダールのアトリエで、最初の印象派の作品が発表されたことは奇遇である。

そして中核でもある、アドリアーノ・チェチオーニ Adriano Cecioni、ニーノ・コスタ  Nino Costa 、アントニオ・プッチネッリ  Antonio Puccinelli が仲間入りし、マッキアイオーリのは完成する。その後活動に遅ればせながら、若いながらもエウジェニオ・チェッコーニ Eugenio Cecconi 、ニコロ・カンニッチ , Niccolò Cannicci 、エジスト・フェローニ  Egisto Ferroniらが加わった。